中村修平 『なかしゅーマジック昔ばなし』 第1回 暗黒時代



2015.06.24
text by Nakamura Shuhei

 


※この話は多分に本人の記憶に基づいての為、往々にして事実は微妙に違っていたりします。

お久しぶり、でしょうか?
中村修平です。

この度、岩SHOWさんからのお誘いでゆっくりまったりとした連載を書かせて貰う事になりました。
とは言っても戦略系の記事、という体裁ではありません。
タイトルからお察しの通り、マジック昔話、的な感じでしょうか?

「あの当時のあんな事やこんな事」みたいなのを、
私も気がつけば周りを見渡して最古参の類になってしまった事実に愕然としつつ、

 


そろそろこういう風なものを書いてもネタになるだろうと思った次第で。

ああ、そういえば同い年世代でニート四天王なんてのがいたなあ。
気がつけば全員働いていますけど、まあそこらへんも追々取り上げていけたらとは思います。

そんな訳で第1回について。
連載にあたって、与えられた設定は回顧録ながら「時系列は自由」というもの。どこから始めようかなんて事を考えたりもしましたが
ここは私がどっぷりマジック沼に足を踏み入れた頃のトーナメント事情について、
今の環境とどれくらい違うか、だなんて話していこうかなと思います。

Vol.1 Real『The Dark』Age

 


公認大会

時は1998年。マジックでいうと『エクソダス』が発売してしばらくしたあたり
と仰々しく書いてみましたが、何ほど事でもありません。

高校受験が早くに終わった事もあって、受験勉強に勤しむ周囲にヘイト値をまき散らしながら学校で「英語の勉強」という名目でマジックを布教してまわり、
そのまま高校進学後も地元のショップでマジックをやりだすという流れを1年ほどやっていた私に1つの小さな転機があった、だけです。

「そうだ、公認大会に出てみよう」

今なら店舗大会=公認大会と言ってしまっても全く問題は無さそうですが...当時は非公認の大会の方がまだまだ主流。
当時はまだネット黎明期。
コンピューターというものがまだ高価な箱だった時期で、インターネットとその前身的存在なパソコン通信がまだ混在していた頃、

ネットでお手軽大会検索なんてものは夢のまた夢、
当時の大会告知は基本、大会があるお店のチラシorカレンダー。
あるいは人づて、
「どこそこでマジックの大会があるらしい」
なんて情報を聞いてとりあえず行ってみるといった、今思うとなんともアナクロなやりとりをしていたものでした。

もっともお店の方はもっと大変だったでしょうね。
ネットで楽々大会申請、ツイッターで勝手に拡散なんてものはなく、
公認申請には郵送でのやりとりが必須、それに大会運営ソフトウェアは無しで全て人力手作業、もちろん大会運営のノウハウはほとんどなし。
ペアリングはもちろん読み上げ式。
今でこそ、TCGというジャンルで見ればある程度の知名度と市民権を得ていると思いますが、当時としてはテーブルトークRPGメーカーがユーザー用に新発売したカードを使ったゲーム大会。
凄く狭いユーザー層に向けて作られた凄く狭いユーザーをターゲットにした新ゲームと言った趣。
どれくらい人が呼べるかなど全くわからず
とてもとても苦労が絶えないものだったと思われます。

その分、それこそ大阪の片田舎から出てこようなんて思わせるような凝縮された活気みたいなものがありましたし、
その手作業感にすら一種のプレミア感があったのです。
ステップアップ順にいくと

 
といったところでしょうか、
ほら、井の中のなんとやらではありませんが、こういったものって自分の分かる範囲を超えてしまうとなにやら曖昧模糊たるなにかで
やっぱ世界的な何やらでしょ、っとなると欧米人っぽい方々がヘイヘイヘーイってやってるんだろうな、とかになるじゃないですか。今思うと二重の意味で笑ってしまいますが
当時はまだ外国といえばテレビか雑誌か学校の英会話教師くらいしか接点がないわけですし、
そもそもネットがない世界なのですから英語そのものすら見る機会がなかったのですから。
世界と言われても何がなんだかっていうのは、今の基準と比べると世間的に随分ハードルが高かったように思われます。

 


「レーティング」

と、話が脱線してしまいました。

公認大会の持つプレミア感に加えてもう1つ、当時からしてとても魅力的に見える要素がありました。

「なんか公認大会というものに出るとレーティングってのがついて、日本ランクがつくらしいぞ」

正確にはレーティングシステム。
ご存知の方のほうが多いとは思いますが、改めて簡単に説明すると
1600点を起点として、勝てば上昇、負ければ下降と点数が変動して自分の強さが解るシステム。
この変動部分で肝となるのがK値とレーティング差があるものとの戦い

まず各大会に8、16、24、32、40、48のK値という数字が設定されており、
例えばK値が8点なら勝ったものと負けたもので勝った方にのプラスと負けた方にのマイナスで合計8点の差が付き、
かつ、だいたいのイメージで、200点差の相手だと点数変動が1:3、
1800点対1600点が戦うと、1800点側の視点で勝てば2点プラス、負ければ6点マイナスという、

要は「勝ち続けろ、負ければすぐ下がるぞ」
というもの。

今考えると中々にマジックの本質、
スキルではどうしようもないゲームの勝敗(事故やトップデックなど)があるという点を軽やかに無視していて面白かったり、
レーティングでのあーだこーだ話で2、3回話が出来そうですが...
単純に当時の私としては、ますます昂ぶる要素の1つでしたね。

日本ランク!
勝ちたがりまっさかりな高校生にそんなものだなんて、
まっしぐらに決まってるじゃないですか!!

 


「可愛げのないデッキ」

そんなわけで大阪の秋葉原的ポジションの街である日本橋まで、マジックの大会をしに行ったのが私の公認大会デビューになります。

使用したデッキは、断片的な記憶を元に再構成するとこんな感じだったはず。
果たして地方のカードショップで小天狗になっていた小僧の成績は如何に...

「パンデモノート」
パンデモノート
20land
4《古えの墳墓/Ancient Tomb》
4《水晶鉱脈/Crystal Vein》
4《宝石鉱山/Gemstone Mine》
4《真鍮の都/City of Brass》
4《知られざる楽園/Undiscovered Paradise》
4creature
4《ファイレクシアン・ドレッドノート/Phyrexian Dreadnought》36spell 
4《水蓮の花びら/Lotus Petal》
2《モックス・ダイアモンド/Mox Diamond》
3《渦まく知識/Brainstorm》
4《暗黒の儀式/Dark Ritual》
4《悟りの教示者/Enlightened Tutor》
4《魔力の櫃/Mana Vault》
4《再活性/Reanimate》
1《回想/Recall》
4《吸血の教示者/Vampiric Tutor》
2《中断/Abeyance》
4《伏魔殿/Pandemonium》
サイドボード
...さすがに忘れました。
たしか同系対策に《エメラルドの魔除け》と青対策に《孤独の都》をたくさん入れていたような気がします。 
入賞はしていませんが勝ち越しという成績だったはず、

の一言で終わらせるにしては、いやあ、我ながら全くもって可愛げのないデッキ選択をしていますね。
初公認大会が瞬殺コンボデッキだなんて、アンケート取ったら1割もいかなさそうなのが請け合いますよ。

唯一ネットで拾ってきたレシピだったのを、改造と言う名の多少の改悪を施した、というところについてだけは当時の自分を擁護できる...のかな?
もしかしたら記憶から抜け落ちているだけで、教示者あたりを抜いてもっとトンデモカードを入れていたのかもしれません。

デッキの動きを簡単に説明すると、
結果は3勝2敗か4勝2敗だったか、

 
これだけです。
初手に6マナとキーカード3枚を揃えれば1ターンキルも可能という「完全絵合わせデッキ」
ちなみにこの当時、1マナの手札破壊は存在しません。 


一番強い手札破壊が《呆然》で次が《強要》なので
このデッキにとって怖いのはカウンターのみ

冷静に今見ると、とんでもなく強いデッキのように思うのですが不思議な事に当時の大阪、この大会ではそれほど有力なデッキでもなく笹沼さん(※)がAPACで準優勝したカウンターが入ったバージョンが数名いた程度。
(※編:笹沼希予志。「日本3大地雷」に数えられた、地雷=完全メタ外オリジナルデッキの使い手。上記のAPAC(アジア太平洋選手権98)準優勝など、90年代後半から2000年にかけて活躍。かの「おにぎりシュート」「バベル」「ドラコ爆発」の生みの親。)

 


まあ環境に弱点と言えるヘビーカウンターデッキが存在していたという事もありますが
この大会では特定のデッキが幅を利かしているという印象もなく、
各人が好きなデッキを使っているというような雰囲気だったと記憶しています。
ある意味牧歌的な、ネットでの拡散が薄かった最後の時代の残滓だったのかもしれません。
こうして小天狗は鼻を折られる事なく、「それなりにやれるかも」という感想を抱いて家路につきましたとさ。

 


「暗黒時代」

と、ここまで当時の私視点で見た公認大会というもののあれこれ。
ですが、当時と今では根本的に違っていた点が1つだけあります
今回はこれがメインテーマ。ちょうど私が公認大会に出始めた頃ってある種の「暗黒時代」真っ只中だったのですよ。

知っている人は知っているかもしれません。
それは、ルールに対して異様なまでに厳しさを求められていたこと。
ギスギスマジックどころではありません、殺るか殺られるかマジック
今考えるとそりゃあもう酷いものでした。

具体例を出すと

 
青マナと5マナを払って《ミューズの囁き》を打ちます。
「あなた"バイバック"って宣言してませんでしたよね、その囁き墓地に落ちて、マナバーン(※)5点食らってください」
(※編:『基本セット2010』まで存在したルール。フェイズ終了時にマナプールに残っているマナを失い、その際に残ったマナ1つにつき1点ダメージを受けるというもの。上記の場合、バイバックという能力に5マナ支払った宣言をしていないので6マナ払って1マナの呪文を唱えてフェイズを終了した扱いになる。)ネタじゃないですよ?
これ、当時頻発した決まり手。宣言し忘れドボン。
当時の価値観では満場一致でクレーム入れたほうが正しいという裁定になります

そこからのちょっとした発展形で土地を少しでも傾けたらやり直しは認められません
マナは出したものとして扱われ消費出来なかった場合マナバーンとしてライフを失います。
もちろん払い直しも不可、色マナが不適正やどうしても払い直したい場合は追加で余分にマナを出してマナバーン。

冗談抜きにアンタップしてから土地を触っただけでマナを出したとクレームを付けられ、それがジャッジ沙汰になるとクレームを付けた方の主張が通っていたのです。
「角度が何度に土地が傾いていたらジャッジにマナを出しているというアピールが出来るか」なんていう議論もされていた記憶があります。

 
今でこそ「ジャッジキル」なる言葉をマジックプレイヤーは鼻で笑えますが、そんな時代もあり
重箱の隅を突くのがプレイヤーの権利で、むしろ義務ですらあるとジャッジも含めて考えられていた時期が一時期と言わず風潮として存在していました。ただ個人的にはその方向に行ってしまっていたというのも判らないではないのですよね。今だからこそ言えるのですが、
当時のマジックは良くも悪くもサブカルチャーの本当に狭いところから分離して産声を上げたばかり、
視点が完全にガチ一辺倒で、ガチ追求の行き着く先としての1つの終着点として完璧な所作を要求というのはまあ、ありうるのかななんてのも思います。
かくいう私もそちら側からスタートして、
ガチの極みとも言えるプロプレイヤーなんざをやっていたので、
馬鹿みたいだとは思いつつも、それがルールならば出来ないほうが悪いというだけの事。

 


かつての《翻弄する魔道士》や《陰謀団式療法》でカード名を正確に宣言出来なかったら無効というので損をするのは自己責任、
得をしたならそれは只の相手の損失。
それとどれだけこの土地問題が違うのかと言われれば、明確に答える事は難しいかな。
所詮時代の要請に従うだけ程度の事でしかないとも思うのです。
と、まあそんな大言を吐きつつも後に《仕組まれた疫病》で盛大にやらかす話をするのでそこに期待しておいてください。

 
とはいえ当時のルール適用度は最も有名な
日本選手権で起きた「《ヴォルラスの要塞》起動できない事件」、 


要塞を起動しようとして先に要塞をタップしたらマナを出したとのクレーム。
現代ならむしろクレームを付けた方がもしかするともしかしますが、この当時はこのクレームの方が正しいという判断で、「宣言手順は全て相手に突っ込まれる隙を与えない」
それが公認大会に出る上で最低限知るべきマナーだった、という時代がかつて存在したというのが今日のお話でした。

 


「アウトロ」

いやあ怖いですね、恐ろしいですね。
今この時代にマジックできていて幸せです。

 


とはいえ個人的にはまだこの頃のルール適用度・ギスギスはまだやや甘、
この後のウルザ・ブロックにて"フリースペル"というカードパワー的にもアウト、宣言は明確にしなさいよ的なものでもアウトという「ダブルやらかし案件」にて最高潮を向かえるのですがそれはまた追々に。

・追記
次回はその辺りを絡めて、【検閲】の話なんかができたら良いなあ